現役牧師にいろんなことを聞いてみた! Vol.3
現役の牧師である卒業生に、今さら聞けない「牧師への素朴な疑問」にお答えいただきました。
また、同窓生の先輩や後輩に向けて、牧師・クリスチャンとしてキリスト教ついて日々お考えになっていることを語っていただきました。
今回お話を伺ったのは・・・
大阪南吹田教会
高校14期生から聖書科教師
秋山 英明 (アキヤマ ヒデアキ)さん
大阪南吹田教会
- 住 所 : 〒564-0053 大阪府 吹田市 江ノ木町38-15(地下鉄御堂筋線江坂駅から徒歩12分)
- T E L : 06-6330-9460
- 創 立:1956年
- 礼拝時間 10:15
では、早速質問に答えていただきましょう
- どうして牧師になった?
-
牧師の家庭に育てられたこともありますが、やはり、神様によって呼び出されたのでしょう。
- これまで赴任した土地・教会は?
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東京・武蔵野教会、静岡・浜北教会、大阪・大阪南吹田教会
- 1年間でどれぐらい『休暇・休みの日』がありますか?
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全くの休日というのは1日もありません。
- 牧師として働いていてよかったと思った出来事は?
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多くの方々との出会いを与えられたこと。
- 牧師として辛かった経験は?
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特にありません。
- 牧師として一番気合が入る瞬間・出来事は?
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聖書原典から主の御言を聞きいる時。
- 牧師あるあるを何か1つ!
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多様な人々と出会います。
- 清教と関わったこと・清教で学んだことが牧師としての働きにどう影響していますか?
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若々しい人たちから活力をもらったこと。
- その他なんでもどうぞ!
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清教の心をさらに通わせていくことを願って、清教心友会の集いを続けています。
キリスト教ついて日々お考えになっていることをお聞かせください
クリスマスメッセージ
大阪南吹田教会
秋山英明
「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」(ヨハネ福音書1・9)
このシーズンには、この大きな喜びを何としてもお伝えしたいと思いを凝らすのですが、やはり聖書の御言葉に聞き入るに勝る道はあり得ませんので、上掲の御言葉のもとに進み出ますと、大いなる『まことの光』の訪れが告げられて来ます。
『まことの光』とは人口の電飾でもなく神様の創造の御手にある太陽のことでもありません。
神様の創造世界すなわち大気圏、自然界、この宇宙と言ってもいいのですが、これがすべてだと思われているかもしれません。しかし、その上にこの被造世界を下し備えられた神様は臨んでいられます。
『まことの光』は造られたものではなく、その神様御自身の元から直接に開き射し出されて来る絶大無比なる光、すなわち『御顔の光』(民数記6・24-26)のほかでもありません。
『世に来た』といわれる『世』とは、わたしたちが把握し触れ合っている最大限の世界です。
それが全てだとして、その中でそれぞれの身の処し方に明け暮れています。しかし、それでは本当は分かっていない世界が大きく残されています。
例えば最も身近なところでこの自分の本当の初めはどこにあるのか、そしてこの自分の終局はどこにあってどうなるのか、それがはっきり分かる人はだれもいません。
おおよそこの世に備えられ、あるいは起こってくるもので、それは何故なのかを問うとき、往々にして人は無明の闇に放り出されます。
そこへ、実はこの『世』を越えてあるいは包んで神様が共にいます世界が備えられています。そこから目を逸らし背を向けることは、敢えて自ら自分を片面ばかりに局所化し、真っ当な自分を損なってしまうことになるでしょう。
ところが、それでは人のほうから、神様のほうに向き直って行けばよいではないかと思いがちですが、それができないところに人の背き破れ損なわれているところがあります。
ちょっと殊勝な気持ちにもなって神仏に手を合わせたり祈ったりすることによって、すぐにでも神さんに繋がれるものとばかりに思いこんでもろもろの宗教が編み出されますけれども、それらはみんな人間の産物のほかでもありません。
天が地よりも高いように、人間の側からのどんな企てをもってしても『まことの』神様に届き通うことは出来ようがありません。自前の真似事にふけることをもって良しとし、それを越えることはできません。
人の側からはどうしても越えられないところがどうやって越えられるのか、そのための唯一の道、それは実に神様のほうからその道を開き、訪れ「来てくださっている」ことによったのです。
人からはいかにしても全然叶わないことも、ただ神様にはお出来きにならないことはありません。なぜ敢えて神様の方から訪れ来てくださったのか、そのことに驚き不思議に思わざるを得ませんけれども、それは、神様の人を導き返し、神共にいますその聖い交わりを回復せずにはいましたまわない、限りもない愛によるもののほかでもありません。
『まことの光』の来訪来臨は実に全天全地を覆う大いなる驚くべき事態であり、『世』を全く一新する出来事が起こって来て、現に展開されつつあるその最中にあります。
それは『世』の『すべての人』を隔てなく、例外なく一人も去らせないで覆い包み切に招きます。すべての人を『照らす』とは、『輝いている』(ヨハネ1・5)のみならず、それにも増して、明るくし、光を満たし、光の中に移し入れるように作用してくださると告げられて来ます。
この『まことの光』なる神様の御子イエス様が来たり臨んで下さったのに対し、神様のほうからのあまりに驚くべき御業のゆえに、世の人々はかえって躓きを生じざるを得ませんでした。
天地を切り結ぶそんな大いなる方、神様の方から人と出会ってこられるその方が、何故あのように低く蔑まれ顧みられない人として世に臨まれたのか、ましてや、十字架刑という最も無残な死に、葬り去られなければならなかったのか、これは殊に大きな躓きとなりました。
しかし、低く見下され顧みられない人々にこと行き届くように御身をどこまでも低く行き届かれ、世人が神様無きがごとくに背き誇ったそのありようは清算されずには済まされず、そのことを神様の聖前に御身によって負い抜き去って下さるためには、十字架をも厭わず、御身を委ね投じ切られたのでした。
そこに世人の立ち返りの道が照らし開かれています。「十字架によって光を」という聖句がありますが、『まことの光』はまさに「十字架の光」のほかでもありません。
神様の御手の業なる天地は過ぎ行き、必ず終局があります。その中でばかり忙殺されていますと、その行方は閉ざされます。けれども神様ご自身の『まことの光』に闇はあり得ません。「あなたの光、主の栄光があなたの上にのぼったから、起きよ、光を放て」(イザヤ書60・1)と御言葉は督励して止みません。
ここでは「夕となり、朝となる」(創世記1・5)のであり、「夕暮れになっても光がある」(ゼカリヤ書14・7)その光が、現に射し入って来つつあります。
貴重なお話ありがとうございました。
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